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ラプラスの書§2-5

気づけば前回から4ヶ月経ってしまいました・・・
今回も長いですよ~展開もいつものパターンですよ~
その上TS要素なし。
もう自己満足以外の何物でもないですが、よろしければどうぞ。
web拍手
「深淵のプトレマイオス」

   【5】
「だよなぁ~」
 俺はペラペラとめくっていた〈ラプラスの書〉をパタンと閉じる。
 さすがの〈ラプラスの書〉にも『一日で泳げるようになる』なんて都合のいい魔術なんて載っているはずが無かった。
 ぐっと椅子にもたれて、部屋の天井をぼんやりと見つめる。
 
 ――遡ること、今日の昼休み。

 勝負方法が決まったと言うことで、はるかとトレミーの二人には一応の停戦協定が結ばれたらしく、今までよりは幾分か平穏な学校生活が戻ってきていた。
 だが、それも表面的なものにしか過ぎず、水面下では相変わらずお互いが牽制しあい、隙あらば弱みを握ろうと授業中も鋭い目線を光らせていた。
 特に今回、はるかが泳げないと知ったトレミーは執拗にはるかに喰ってかかっていた。いつもならばその度にギャーギャーと一悶着あるのだが、余裕の表れか、はたまたそれだけの余裕もないのか、はるかは相手にしていない様だった。
 まあ、なんにせよ。俺は久しぶりにのんびりと昼休みを過ごせていた。
 加路がクラスの秀才、湯山から今度の期末試験の必勝ノートを写させてもらったというので、俺もその恩恵にあやかろうとガサゴソと加路の机を漁って、目的のノートを取り出したときだった。
「ん、なんだこれ?」
 ノートを机から取り出した拍子にノートに挟んであったのだろう、プリントがはらりと落ちて、なんとなくそれを拾い上げる。
 それは理科の小テストだった。相変わらずの残念な結果だったが、なんとなく嫌な予感がして裏を返してみれば、案の定。
『トレミーVS霞野  オッズ表』
 一番上にデカデカと加路の個性的な字がそう書かれていて、その下には数名のクラスの奴らの名前と掛け金であろう数字が並んでいる。
 昨日、あの騒ぎの後で加路が必死になってやっていたのはこれか。
 俺は半ば呆れつつ、そのオッズ表に目を通してみる。結構な人数が参加しているようで、真面目そうなメガネの図書委員や湯山の名前まである。
 だが、その賭の比率は明らかに偏っていて、ほとんどがはるかに賭けられていた。
 ふと、そこで少し疑問に思う。クラスの奴らなら、はるかが水泳が苦手なことぐらい知っているはずだ。それでも、はるかに賭ける人数が多いのは何故なのだろうか。
 その瞬間、昨日のHRのことが思い出される。
 はるかが愕然とする表情を浮かべるその視界の端で、してやったりな笑顔を浮かべる加路の姿を俺は捉えていたのだ。
 おそらく、加路は次の体育の授業がはるかの苦手な水泳に替わるという情報をどこかで得ていたのだろう。そこで、勝負方法が決まってすぐに皆に賭を持ちかけたのだ。
 勝負方法が決定した時には誰も体育の授業がはるかの苦手な水泳に替わるなんて知らないので、当然運動神経のいいはるかに賭けるだろう。一部、トレミーの熱狂的な信者、通称『一蹴会』を除いて。
 そうやって、いい感じにはるか側に偏った賭のレートは当然トレミー側のほうが高くなる。 そして、競技種目が急遽はるかの苦手な水泳になれば、レートが高いままトレミーの勝つ可能性が高くなる。そこに自分も大金を掛けてウハウハって寸法だ。
 だから、あの変則的な種目の中に一つだけ一般的な「体育」があったのだ。
「加路のヤロウ・・・」
 俺の頭の中には札束をバラ巻きながらクラスの女子たちをはべらす加路の姿が思い描かれる。くそう、自分だけいい思いしやがって。
「なに?その紙」
 ちょっとオーバーな妄想に怒りの炎を燃やす俺の手から、ひょいとはるかがプリントを取り上げ、しげしげと眺める。こいつ、いつの間に?
「あっ、それは・・・」
「加路君たら、またこんなことやってるのね」
 一通り目を通してその内容を察したはるかは、怒っているというよりも呆れたという感じでそう漏らす。
 そういや、はるかは中学になってから加路のこと「加路君」って言うようになったな。昔は「たーくん」だったのに。俺は未だに「ゆーくん」のままだが。
「『また』っていうと、前もあったのか?」
「うん、体育大会とか学校行事がある度にやってるわよ。一度、先生に注意してもらうように言ったんだけど、後でかのちゃんに聞いたら先生も参加してるみたいなのよねぇ・・・」
 そう言われてみれば、さっきのオッズ表の中にも先生の名前があったような気がする。
 確かに水谷先生は賭け事が好きそうだ。それも男に敬遠される原因だと思うが、余計なお世話だな。
「なっ、ここは二人で見返してやろうぜ?」
「え?」
 突然の俺の提案にきょとんとした表情で俺を見返してくるはるかに、俺はとっておきのイタズラを仕掛けるときのようにニッと力強い笑みを浮かべて作戦を説明する。
「先生もグルなんじゃ、ヤツに反省を求めても無駄だ。ここは、はるかがトレミーに勝って世の中何でも自分の思い通りに行かないってことをヤツに思い知らせてやるんだよ」
 もちろん俺もはるかに賭けて小遣いを稼がせてもらうが、それは内緒で。
「わかった。わたし、頑張る」
 俺の熱意が伝わったのか、はるかがぐっと小さくガッツポーズをする。
「で、どうなんだ。少しは泳げるようになったのか?」
 今回、はるかが泳げるかどうかがキモになってくる。
 昨日は心配そうな素振りを見せていたが、今日幾度となくあったトレミーの牽制にも動ずることなく答えていたところを見ると、実は去年よりは少し泳げるようになっているのかもしれない。
「ううん、全然」
 はるかは満面の笑みで俺の淡い期待を吹き飛ばしたのだった。


「う~ん、そうだなぁ・・・」
 うんうんと唸っていてもなかなか良い考えは浮かばないもので、気づけば時計の長針はさっき見たときより180度移動して、ついに日付が変わってしまった。
 ちら、ともう一度〈ラプラスの書〉に目をやると、その分厚いページの中からちょこんと出ているしおりが目に入る。
 俺はもう一度〈ラプラスの書〉を開き、改めてそのしおりを眺めてみる。
 薄い金属板に紐がついただけのシンプルなものだが、所々にレリーフのような細工が施されていて、これだけでも十分価値がありそうな代物だ。
 ずっと本に挟まれていたためだろう、ずいぶんと年代は経ているはずだが、錆やくすみは無く、部屋の明かりに照らされて澄んだ光沢を放っている。
 角度を変えると細かい装飾がまるでホログラムや万華鏡のようにキラキラと不思議な輝きを見せる。
 しばらくその不思議な輝きに見とれていたが、今はこんなことをしている場合じゃないと、しおりを元のページに戻そうとして、開いてあるページに目が止まった。
 〈ラプラスの書〉には様々な文字、言語で書かれており、開いてあるそのページはルーン文字だろうか、細かい直線で構成された独特の文字でびっしりと埋まっていた。
 英語すら辞書を片手に少しづつしか解読できない俺が何故このページに目を止めたかというと、そのページの下の方に明らかにあとから書き加えられたであろう二行があったからだ。
 その二行だけがルーン文字ではなく、何語かのアルファベットで書かれているようだったが、かなり崩した筆記体で書かれているため、なんて書いてあるかまではわからない。
 だが、俺はきっとこのページを見たことがある。
 そう感じたのだ。
「・・・・・・」
 皮の表紙のざらざらした感触。ページの間から香る古い紙の臭い。
 薄暗い部屋。
 ゆらゆらと揺れる暖炉の火。
 パチン、とはぜた薪の音に驚いたキミが首をあげ、チリンと鈴の音が響いて――
「まだやってたのか?」
 突然、掛けられた声に我にかえる。
「悪い、起こしたか」
 振り返ると、そこにはアルキメデスが眠そうに顔を上げて、くぁと欠伸をしていた。
 なんだったんだろう、あの既視感は。
「どうだ、何かいい方法は見つかったか?」
「いいや、まったく」
 アルキメデスの質問に俺は改めて現状の厳しさを痛感する。
 今、使える魔術で俺の泳ぐイメージをはるかに直接伝えるという方法もあるが、言葉ですらまともに伝えられないのに、明確なイメージを直接伝えるというのはかなり難しいだろう。
 人それぞれの体験の仕方というものは必ずしも同じでないし、体を動かす感覚だって異なるからだ。
 それならば結局、本人が地道に練習したほうが早い。

 ――と、いうわけで。
 日曜日、俺とはるかは街の温水プールに来ていた。
 もうすっかり暑くなってきたので近くの川でも泳げないこともないが、全く泳げないはるかがいきなり流れのあるところで泳ぐのは難しいだろう。
 だからといって、水泳部でもないやつが放課後に学校のプールを使うことはできないし、なにより学校ではトレミーの邪魔が入りかねない。もしそうなれば、自体はさらに泥沼化するに決まってる。
 そのために、俺たちはわざわざバスに乗って街の温水プールまでやってきたのだ。
 まだ夏本番には早い時期もあってか、傍らの水泳教室以外に人はまばらで、これならば練習に必要なスペースは十分確保できそうだった。
「おまたせ~」
 プールサイドで待っていると、少ししてからはるかがこちらに歩いてきた。
 通常、水泳の授業は男子と女子分かれて半分ずつプールを使うので、一緒に泳ぐことはない。つまり、間近で女子の水着姿を見ることなんて無いのだ。
 そして、今俺の目の前には水着姿のはるかがいるのだった。
 はるかの水着姿は地味なスクール水着ながら、ちゃんと出るところは出てきていて、もうすっかりオンナノコの体つきになっている。
「ん、どうしたの。ゆーくん?」
 まだやはりその自覚がないのか、はるかは無邪気な視線を向けてくる。
「な、なんでもない。今日はビシバシ行くからな」
「うん!」

「ありがとう、ゆーくん。おかげで凄い上達したよ!」
「そうか、それはよかったな」
 市民プールからバス停に向かう途中、少々興奮気味に語りかけるはるかに俺はぶっきらぼうに答える。
 確かにはるかにとってすれば、水に顔をつけれるようになって、目まで開けられるようになったのだ。これを上達と言わずしてなんと言うべきか。
「あとは泳げるようになれば楽勝ね!」
「ああ。明日の朝までにな」
 そう、トレミーとの決戦は明日なのだ。
 確かに水に対する恐怖が薄まったのはかなりの前進だが、結局泳げるまでには至っていない。やはり、水に一人で浮くということに恐怖心があるようだった。
 せめてビート板を使ってでも泳ぐことが出来たなら、その身体能力だけでトレミーに勝てたかも知れないのに。
 そう心の中で呟いても既に遅く、過ぎてしまった時間は戻らずに決戦までの時間は今も刻一刻と迫っているのだった。

 ちょっと歩いて駅前のバス停に着き、帰りのバスの時間を確認する。
 さすが田舎だけあってのバスは少なく、次のバスがくるまではまだ少し時間あった。
「ちょっと、寄り道していいか?」
 俺はちょっと思い当たるところがあって、帰りのバスを待つためのベンチを探そうと辺りをうかがっていたはるかに声をかける。
「うん、大丈夫だよ」
 郊外に大型ショッピングセンターが出来てからすっかり寂れてしまった駅前商店街の奥、ろくに日も当たらないような路地裏にその店はあった。
 『リサイクルショップ暗黒物質(ダークマター)』。
 その怪しげな名前に違わず、古びたその店の外観にはなんとなく入店をためらうような、人を寄せ付けない不気味さが漂っている。
「なんか気味が悪いよ・・・」
 はるかが不満と不安の混じった抗議の声を上げるが、俺はかまわず年季の入った木製のドアを開ける。
 カラン、とドアに付いていた鐘が少し曇った音を薄暗い店内に響かせる。
「いらっしゃいませ~」
 気の抜けた挨拶の声がかかり、ごちゃごちゃと怪しげなものばかり並ぶ店内の奥、カウンターに座って何かの本を読んでいた店主が顔を上げる。
「やぁ、この前の」
 どうやら俺のことを覚えてくれていたらしい。
 よくよく考えてみれば儀式用の材料なんかを買いに来ているから、結構な回数足を運んでいることになるか。
 一応『リサイクルショップ』とは銘打っているが、そのほとんどが中古品というより骨董品といったほうがしっくりくるものばかりだし、一部新品も扱っているようだった。
 いっそ『オカルトショップ』としたほうが道行く人にも分かりやすいと思うんだけど、そんなことしたら一般客の来場はほぼ期待出来なくなるだろう。
 店内には古今東西あらゆる怪しい品物が並んでいて、あっちの壁にセフィロトが書かれた羊皮紙が貼ってあるかと思えば、こっちには厳つい文字で書かれた般若心経の屏風が立ててある。
 ちなみに今月は『夏のヒンドゥーフェア』だそうで、シヴァ神グッズが20%オフらしい。
 とにかく儀式用の道具、材料の品揃えが半端ではなく、そういう意味では重宝している。
 〈マクスウェルの箱〉も店主に『凄いのが入ったから』と半ば強引に買わされたものだ。中学生にはなかなかの金額で、使い方の分からなかった当初はぼったくられたと思いもしたが、その威力を知った今では相当な安値だったんだと改めて思う。
「どうも」
 俺は店主に軽く挨拶をして店の奥へと足を進めていく。
「おっ、そっちの娘は彼女かな?」
 中年と呼ぶにはまだ少し早い位の年齢であろう店主は、その人の良さを伺わせる柔和な笑みを浮かべてそう言う。
「からかわないで下さいよ」
 俺は軽く苦笑し、曖昧に返事をして店内を進む。中はごちゃごちゃとしているため狭く感じるが、敷地自体は結構広く、店主のいるカウンターまでは少し距離がある。
 はるかは並べられているオカルトグッズを物珍しそうに、イモリやムカデの干物なんかを見たときは青くなりながら俺の後についてくる。
「今、お茶入れるから。取りあえず座って、座って」 
 カウンターの横にはちょっとしたスペースがあり、そこにいかにも年代物のアンティークの机と椅子がおいてある。
 立ちあがった店主がそそくさとテーブルの上を整え、椅子を引いてくれる。
 俺とはるかが促されるまま椅子に腰掛ると、店主がさっとティーカップを並べる。
「あ、カモミール」
 コポポ、と注がれる紅茶とともにやんわりと広がった香りにはるかが反応する。
「よく知ってるねぇ。キミはいいお嫁さんになるよ」
「そんなぁ・・・」
 見え見えな店主のお世辞に大げさなほどにはるかは照れて見せて、それを誤魔化すように細かい装飾が施された小さなカップを両手で口に持って行く。
「わぁ、おいしい!」
 そう声を上げたはるかを嬉しそうに眺めて、店主は一層笑顔を柔らかくする。
「隠し味に少し風味を入れてるんだけど、何だか分かるかな?」
 はるかはカップを口元に持っていき、すぅ、と香りを嗅ぎ、軽く口に含む。
「うーん、そうですねぇ~」
 むむむ、と考えこむ。
 だが、結局結論には至らなかったようで、もう一口含んで更に考え込む。
「どう、ユークリッド君は分かるかな?」
 思いの外悩んでいるはるかに変わって店主は俺の方に視線を向ける。
 その視線に促されるように俺も一口含んで味を確かめる。
 すうっとカモミールの甘い香りが鼻腔に抜けていく。
 よく注意してみれば確かに寄り添うようにして香りに深みを持たせている風味がある。
「・・・柚子、ですか?」
「正解。さすがだねぇ」
「ああっ、確かに!」
 正解を知ったはるかは思わず声を上げ、うんうんと納得する。
「へぇ、ゆーくんも意外とよく知ってるのね」
 はるかは心底驚いたという視線を俺に向けてくる。
「ハーブとオイルは魔術の基本だ」
 はるかのその尊敬の眼差しに俺はちょっと得意げに答える。
「なーんだ、聞いて損しちゃった気分。普通に『ハーブが好き』とかでよかったのにぃ、『魔術』とかいらないから」
 はるかは納得がいかないという感じで、少しいじけたような視線を俺に送ってくる。
「さて、今日は何をお探しだったのかな?」
 テイスティング大会が一段落したところを見計らって、店主が俺に声を掛ける。
「あ、そうだった。パワーストーンなんですけど・・・」
 
 目的のパワーストーンを購入し終えて、そのまま俺と店主がオカルト話で盛り上がる。
「今年はツチノコの目撃情報が結構入ってきてるよ。また大規模な捜索隊が結成されるみたいだから、今年こそ見つかるかもね」
「へぇ、それは楽しみですね。昔は結構真剣に探してたんですよ」
「でも、本当に捕獲に成功しちゃうとなんか寂しい気もするね」
「そうですか?世紀の大発見ですよ」
「ほら、謎は解明された途端に謎じゃなくなっちゃうってことさ・・・おっと」
 会話の最後何かに気づいたらしい店主の視線をたどると、そこには明らかに退屈そうにぼーっと店内を見渡すはるかの姿があった。
「ゴメン、ゴメン、ついつい夢中になってしまった」
 店主はずらりと瓶が並ぶ棚から一つを取り、手際よくおかわりを淹れる。
「はい、彼氏をとってしまったお詫びに。この店のとっておきを召し上がれ」
 コト、と置かれたティーカップからふわっとさわやかな花の香りがする。これはジャスミンかな。
「わぁ、これもおいしいです」
 なるほど、はるかの機嫌をとるには紅茶がいいのか。今度試してみよう。
 ふんわりとしたジャスミンの香りがゆっくりと店内を覆っていく。
 ぬるめにかけられたエアコンの空気を天井のシーリングファンがゆっくりとかき回して、自然と談笑もまったりとしたものになっていく。
 のんびりとした、いい昼下がりだった。

 カラン、と入り口ほうでドアのベルが鳴る。
 どうやら他にお客が来たようだ。
 壁の大きな振り子時計を見た店主が「ああ、そろそろ来る頃かな」とつぶやく。
「やぁ、ノエル。遅かったね」
 ひょいと、カウンターから身を乗り出して店主が入り口のほうに向かってそう声を掛ける。
「全くよ。これじゃ《ラファル》の名が泣くわ」
 入ってきたのはすらっと背の高い女性だった。
 どうやら外国の人なのだろう。短く切った濃いめのブロンドヘアが凛とした印象を強くしている。
「で、どうなの。状況は?」
 狭い店内を荷物を抱えて進んでいるため、周りに気を取られてこちらには気づいていないようだった。そのまま店の中を進みつつ店主に声を掛けてくる。
「まあ、まだ日本に着いたばかりなんだからさ。そう焦らずに、とりあえずゆっくりしていきなよ」
「もう、なにを悠長なこと言って・・・」
 店主ののんびりとした口調に苛立ったのか、少し険の含まれた女性の声が俺たちと目があってピタリと止む。
 束の間その濃いブルーの瞳と俺の視線が重なったかと思うと、女性はちらと店主と視線を交わしたようだった。
「あら、ごめんなさい。お客さんがいらしたなんて気づかなかったので・・・」
 見るからに重そうな皮の旅行鞄を脇に降ろして、途端によそ行きの表情になった女性が明るくそう言う。
「あ、おかまいなく」
 そうはるかが言ったものの、その女性は全く聞いていな様子でずい、と一直線に俺の方へと向かってくる。
「ふーん」
 じっ、とその女性はその長身をかがめて俺の目を覗き込んでくる。
「な、なんですか?」
 俺は少し慌てて、女性の瞳を見つめ返す。
「うふふ、なんでもないわ」
 その女性ははぐらかすように含んだ笑いを浮かべ、視線を外す。
 気づけば、はるかが隣でいかにも面白くなさそうな顔をしている。せっかくジャスミンで良くなっていたご機嫌がまたナナメになってしまったようだ。
「ゆーくん、行こ」
 がた、と少々乱暴に椅子から立ち上がると、そのままぐいっと俺の袖を引っ張る。
「おい、はるか・・・」
 俺は少しばかり抵抗を試たが、思いの外強い力にあえなく断念し、そのまま引きずられるようにして俺ははるかの後をついて行く。
「はは、彼女の機嫌を損ねちゃったかな。紅茶はサービスだから。またいつでもおいで」
 店主は先ほど来た女性にお茶を出しつつ、そんな俺たちのやりとりを見て何故か少し嬉しそうにそう言った。
「彼女を大事にするんだよ~」
 そんな店主の冷やかしの声がバタン、と音を立てて閉まったドアの音でかき消された。

 夕方にはまだ少し早い時間、バスの中は客もまばらで、俺とはるかは一番後ろの席に二人でゆったりと座っていた。
「いよいよ明日だな」
 車窓の景色がだんだんと家に近づくにつれ、なんとなく一日の終わりを感じて俺ははるかにそう声を掛ける。
「うん、大丈夫かな・・・」
 はるかは少し不安げにそう答える。ついさっきまでむすっとしていたが、今では少し元気がないようにも見える。
「ここまで来たら何を言ってもどうしようもないだろ、今更種目の変更なんてトレミーが聞きそうにないしな」
 結局、はるかは今日の練習でも泳ぐことが出来るようにはならなかった。トレミーの実力がどれほどかは分からないが、泳ぐことが出来なければどのみち勝てる見込みは無いに等しい。それに、最悪また魔術を使ってくる可能性だってあるのだ。
「昨日も練習できると良かったんだけど、お祭りの練習があったから・・・」
「それは仕方ないさ。練習はうまくいってるのか?」
 そう沈みがちに続けるはるかに、俺はさりげなく話題を変える。
 はるかに出来ることはすべてやったのだ。たとえ、ゆっくりと水の中を歩くだけしかできなくて、負けることが目に見えていても、はるかは逃げ出すことなくトレミーと勝負をするだろう。
「うん、なんとか。今年はなにか特別な年なんだって。舞も祝詞も多くて、も~大変」
 練習のことを思い出したのか、はるかは困ったような笑顔を浮かべた。
 そこでバスが止まった。次の停留所だ。
 がたがたと数人が席を立ち、前の降車口へと向かっていく。
 ほかの乗客は全員降りてしまったようだ。
 バスが動き出し、そのまま会話が途切れてしまって俺は車窓から外を眺めていた。
 川沿いの曲がりくねった道をゆっくりとバスは進む。
 ふと、肩に重みを感じた。
 なんだろうと思って見てれば、はるかが俺の肩に寄りかかってすーすーと寝息を立てている。
「おい、はるか・・・」
 俺は慌てて起こそうとするが、その伏せられた睫毛のすっとした細さに声を掛ける気を無くしてしまう。
 今日は苦手な水の中にずっといたわけだし、祭の練習の疲れも溜まっているのだろう。
 まあ、いいか。今はほかに乗客もいないようだし。
 俺はそう考えを切り替えて、もう一度車窓から外を眺める。
 弱めの冷房がいい感じに体を冷ましていく。
 時折、窓から木漏れ日が差し込んでくる。
 コトコトと揺れるバスに体を預けると、自然と力が抜けていった。


「ツチノコ?」
「かのちゃんが見たんだって!」
 急に暑さを増した日曜日、突然押しかけてきたはるかは興奮気味にそう言った。
 ツチノコ。野鎚、バチヘビなどとも呼ばれる蛇らしき生物は、日本全国に目撃証言のあるメジャーな未確認生物だ。
 このあたりでも真偽のほどは定かでないが、何件か目撃証言があり、村おこしとして懸賞金がかけられている。
 当時小学生だった俺たちの間でも隣のクラスの奴が見た、とかそういう噂が流れていて密かなブームになっていた。中には数人で調査隊を結成して夏休みの自由研究にする奴らもいるほどだった。
 賞金もさることながら、やはり『未知の生物』というものは、いつの時代も少年の好奇心を駆り立てて止まないものなのだ。
 もちろん俺も例外に漏れず、夏休みに入ってからはツチノコを捕獲すべく何度となく山に入っていたが、未だこれといった収穫は得られていなかった。
 そんな中に目撃情報が入ってきたとなれば、食いつかずにはいられない。
「本当か!」
「うん。先週、かのちゃんがお父さんと写真を撮りに行ったときに見たんだって!」
 俺も興奮して聞き返すと、はるかはいてもたってもいられないという風に目を爛々と輝やかせて答える。
 ああ、まだこのころは純真だったんだなぁ。最近のはるかなら『ゆーくん、まだそんなこと言ってるの?私たち、もう中学生なのよ』と一笑に付すことだろう。
 確かに、最近ではツチノコの正体はトカゲの見間違いだとか、ヘビが獲物を丸呑みにした姿を勘違いした、というのが通説だ。 
 もしかしたら本当にその通りで、世界中のあらゆる超常現象や未確認生物なんてマジックのようにタネを知ってしまえば、なんてことは無いものなのかもしれない。
 実にくだらない、取るに足らないような事のなのかもしれない。
 今はまだ単純に懐かしいと思えるけれど、十年後、二十年後にふと振り返ってみたとき、なんてバカな事をやっていたんだろう、なんて時間の無駄だったろう、と思うかもしれない。
 それでも、と俺は思う。
 大切なのは存在を信じると言うこと。いつか出会うことが出来ると信じること。
 当時の俺は絶対にいると信じ込んでいたし、今でもいるといいな、くらいには思っている。
 だって、そんな奇妙な生き物がいた方が絶対に面白い。
 きっと世界は取るに足らないような事ばかりじゃないし、くだらなくもない。
 そう思えるような何かがこの世界のどこかには絶対にある、とこの時は確信していた。
 だからこそ、今になって〈ラプラスの書〉に魔術が記されていると分かっていたときは本当に嬉しかった。世界にはこんな素敵で不思議なものが存在するのだと歓喜に震えた。
「よし、行くぞ!」
 さっそく俺とはるかはタモを手にし、リュックに簡単な食料や道具を背負って神社の裏手の森の中に入っていった。
 梅雨がようやく終わり、久しぶりに見上げる空は透き通るように青く、真っ白な雲が浮かんでいた。
 お天道様も今までの雲に覆われていたストレスを一気に晴らすかのようにサンサンと光り輝いている。
 今日は絶好の冒険日和。
 自然と進む足も軽やかになる。
 裏の森はしっかりと遊歩道が整備されていて、小学生の足でも歩いて行くのは苦にならない。ましてや、幼い頃からこのあたりの森を遊び場にしてきた俺たちならば尚更だ。
 俺とはるかは木々のトンネルの中を進んでいく。
 ただ、やはり昨日までの雨の影響は大きいようで、所々に水溜まりが残っているし、小川の水もいつもの数倍に増水してどうどうと豪快な音を立てて流れていた。
「このあたりだな」
 俺は自前のハイキングコースの地図と木津の証言を照らし合わせて、ツチノコを見たとされる場所を推察する。
 はるかの話によれば、木津が霞野神社の裏山に写真を撮りに行った父親について行った時に見たそうだ。
 木津の父親は写真家で、木津が生まれる前にここの自然が気に入って引っ越してきたらしい。木津もそんな父の影響で写真を始め、このころにはもう父親について行って一緒に写真を撮っていた。当時の俺もその写真を見せてもらったが、どこにでもあるようないつもの日常があんな風に四角く切り取られるだけでこうも違って見えるのか、と幼いながらに感心したものだった。
 しかし、それがどう間違ったのか、今では人のプライバシーを食い物にするゴシップ記者に成り果ててしまうとは・・・
 改めてあたりを見回してみれば、歩道以外はすべて緑の葉や木の幹で埋め尽くされており、まるで人が入り込むのを拒むかのようだった。
「えーっと、あった。ここだ」
 その道の傍らにある目印の石を見つけ、その脇の草むらに分け入っていく。
 初めてここを歩く人にはまず分からないであろう獣道の様な道があり、ここから下の沢へと降りていくことが出来るのだ。
 先日までの雨を浴びて一気に伸びた下草を掻き分けながら、俺とはるかは少しづつ山の斜面を下っていく。
 やがて、途中にある大岩へと出る。この岩は沢の途中に突き出るように位置していて、ここからならば沢を一望することが出来るのだ。
 いつもならちょっとした河原があるこの沢も、今はほとんど増水した川に飲み込まれていていて、降りていけるような所はなさそうだった。
 どちらにせよ、こちらからガサガサ探し回ったのでは警戒心の強いとされるツチノコがノコノコ現れるはずもなく、こうして見晴らしの良い所から餌になりそうな虫が集まる沢を見張っているのが一番だ。本来ならば適当な罠でも仕掛けられると良いのだが。
 その後も俺とはるかは岩の上に座り込んで、ただひたすらにツチノコを待っていた。
 時折、川辺に沿って涼しい風が通るので、そこまで暑くはなく、過ごすのは苦にはなかったが、なかなかツチノコは現れず、そのまましばらくは蝉の大合唱を聞いているだけの時間が過ぎていった。
「あっ、あれ!」
 そんな折り、はるかが突然上流の方を指さしてそう声を上げた。
 はるかの指さす先を目で追うと、少し川上の流れの緩やかな川縁に褐色の塊が見えた。
「あれは・・・」
 もしかしたら、という期待が頭をよぎり、自然と鼓動が高鳴っていく中、その正体を見極めようとじっとその褐色の塊を注視する。
 それは全体的に平ぺったい体をしていて、所々に黒い斑点のような模様があった。体の大きさにあまりにも不釣り合いな小さな手足でのそり、のそりと石の間を進んでいく。
「凄い!オオサンショウウオだ!」
 俺は思わず声を上げる。
「うわ、何それ。気持ち悪い!」
 はるかもその正体がツチノコではないと気づいたのだろう、改めて見たそのちょっとグロテスクな外観に明らかに嫌悪感を示す。
「気持ち悪いとは何だ、これでも特別天然記念物なんだぞ?」
「はるかはツチノコのほうがいいもん」
 ツチノコもオオサンショウウオも形的にはそう大差ないと思うんだが。
 はるかのやつ、ツチノコのイメージをハムスターとか愛玩動物的なものと勘違いしているんじゃないだろうか、と少々不安がよぎる。まあ、もし本当に捕獲することが出来た時は現実の厳しさを教えるのも友人としての勤めだよな。
 興奮する俺とは対照的にちょっと引きぎみなはるかは急速にオオサンショウウオから興味を無くしたようで、本命のツチノコを探すべくさらに川縁を注意深く眺めているようだった。
 俺はすかさず家から拝借してきたデジカメでオオサンショウウオを撮影する。
 足場が悪く、これ以上近づいての撮影が難しかったため、あまり大きくは撮れなかったが一応ディスプレイ内にはかろうじてオオサンショウウオと分かる褐色の物体が水の中を進む様子が映し出されていた。
 その後も水場は生命の宝庫でハグロトンボだとか、アカショウビンだとか、多種多様な生き物に遭遇して俺としては飽きることは無かったが、ツチノコ以外には特に興味のないはるかはすぐに飽きてしまったらしい。
「ツチノコ、いないね~」
「そうだな・・・」
 やがて、はるかが激しく渦巻く濁流をぼんやりと眺めながらそう呟く。もう昼も近く、幾分か水量は減ってきたように感じるが、未だ河原は水に浸かっており、降りていくことは出来ないようだった。
 一方の俺はかすかな変化も逃すまいと、ただひたすらに対岸や、隠れるのに丁度良さそうな草むらをじっと注視していた。
「ねぇ、ゆーくん。そのカメラ見せて」
 はるかの興味の矛先が俺がそのまま首から提げていたカメラに移ったらしい。
 とりあえずカメラを渡しておけばとりあえず大人しくしているだろう、と考えた俺はさっさとカメラをはるかに渡して再び周囲に注意を向ける。
「ゆーくん!」
 しばらくして不意に肩を叩かれ、また何か珍しいものでも見つけたのかと振り返る。
「ん、どうした?」
 振り向いた先のはるかはカメラを俺の方に向け、万全の体制で待ち受けていた。
 カメラの赤外線照射器部分が光ったかと思うと、ピッ、という電子音がした。
「えへへ~」
 そのカメラの後ろから無邪気な笑みを浮かべたはるかの顔が出てくる。
「おい、返せよ」
 俺はその笑顔になんだか気恥ずかしくなって、はるかからカメラを取り戻そうと手を伸ばす。
「べーっ」
 ひょい、とその手をかわしたはるかが舌を出す。
「後でこの写真もらっていい?そしたら返してあげる」
 はるかはそう言って、大事そうにそのカメラを両手で抱えたまま、じっとこちらを見てくる。うわ、嫌なパターンだ。
 はるかは頼み事をするときよくこの手を使う。『俺の持ち物を借りておいて、返す代わりに何かをして』という、いつものパターンだ。さすがに金をよこせだとかそういう悪質なお願いは無く、本人としてはお願いのちょっとしたきっかけのつもりなんだろうが、おかげで何度神社の掃除を手伝わされたことか。毎回引っかかる俺も俺なんだけどね。
「・・・わかったよ」
 こういう所だけやけに狡猾なんだからなぁ、とその無邪気な視線にちょっと悔しさを覚えつつも俺は渋々そう答える。
「わぁ、ありがとう!」
 その返答に満足したのか、嬉々とした声を上げたはるかは俺にカメラを返すべく手をさしのべる。
 が、ツルッと見事なまでにカメラがバランスを崩し、小さなはるかの手から滑り落ちようとする。
「わっ!」
 慌てたはるかが急に手を上げたため、カメラを弾いてしまい、目の前で宙に浮く。
 幸い、真上に高く上がったため何とかタイミングを合わせたはるかが両手でパシ、と受け止め、俺は胸をなで下ろす。
「ふぅ、脅かすなよ」
 だが、やはり足場の悪いところで急に動いたのが災いした。
「あっ」
 はるかはなんとかカメラをキャッチしたものの、背負っていたリュックの重みもあり、重心が後ろにずれていたのだ。
 ぐらり、とはるかの小さな体が大きく傾いて、みるみるうちに後ろに倒れていく。
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「ゆーくん!」
 はるかが手を差し出してくる。
 俺も慌てて手を伸ばすが間に合わず、虚しく空を切る。
 まるでスローモーションのようにゆっくりとはるかが遠ざかって、落下していく。
 ドボン、と水しぶきが上がったかと思うと、次の瞬間にはるかの姿は消えていた。
「はるか!」
 俺は一も二もなく飛び降りていた。
 落ちていく途中で誰か助けを呼ぶべきだったかとか、そんな考えが浮かんできたが、もう遅い。
 とにかく、俺がはるかを助けなければ!
 
 飛び込んだその先はまるで別の世界だった。
 上下左右、縦横無尽に押し寄せる圧倒的なまでの水の流れ。
 ただ、聞こえてくるのは荒れ狂う水と泡の音。
 手足を必死にばたつかせて上に上がろうともがくが、まるで水をつかむことが出来ず、得体の知れない大きな流れに為す術もなく押し流されていく。
 もう平衡感覚はすっかり麻痺して、どこが上でどこが下かなんてわからない。
 荒れ狂う水が鼻から侵入して、驚いた俺はパニックを起こして思わず息を吐き出してしまう。
 かろうじて水を飲み込むことはなかったが、肺の中の空気はほとんど吐き出してしまったようで、体中が酸素を求めて悲鳴を上げる。
 ああ、もう駄目だ。
 そんな絶望が俺の頭の中を埋め尽くしていく。
 俺は赤ん坊の用に体を縮ませて、すべての感覚を閉じ、ただ濁流に流されるままになる。
 真っ暗な視界。流されていく感覚がだんだんとゆっくりとしてくる。
 緊張できついくらいに体を縮ませているはずなのに、だんだんと力が抜けていく。
 うるさいはずの濁流の音がだんだんと遠くなって、それがまるでどこかに沈んでいくような感覚に変わっていく。
(あきらめるな!)
 突如、頭に響いた声。運良く一瞬だけ水面に顔が出た。
 俺はすかさず息を吸う。冷たい空気が体中に染み込んでいく。
 そうしてわずかに冷静さを取り戻すと、頭に浮かんできた言葉は一つ。
「はるか!」
 再び冷たく荒れ狂う奔流に押し流されながら、必死にはるかをさがす。
 今はさっきより少しだけ余裕があった。
 濁流に逆らうのではなく、流れの中で自分がどう動くかだ。
 無理に上に上がろうとするのではなく、体が浮いたときに息をすればいい。
 自由に行きたい方向に動くことは出来なくても、流れから流れへ少しづつ近い流れに乗っていけばいい。
 その中、わずかな隙間に何かを感じた。
 俺は手を伸ばす。
 流れと反する動きに濁流が容赦なく襲いかかる。
 そのあまりの勢いに満足に指を広げることすらままならない。
 下手をすれば体ごと持っていかれてしまう。

 それでも俺は手を伸ばす。
 絶対に掴んでみせる。
 絶対に、守る。
 
 届け。
 ―届けっ!
 ――届けぇぇっ!
 
 次に俺が見たのは視界いっぱいにあるはるかの顔だった。
「・・・はるか」
 ぼんやりと霞がかかったようにはっきりとしなかったが、その顔を見た俺は思わず名前を口にしていた。
 それがまるで魔法の言葉のように、はるかの顔がぱぁっと光るように明るくなって、ぽたぽたと涙が俺の上に降ってきた。
 ゆっくりと感覚が戻ってきて、俺の手がしっかりと握られていることに気づく。
 小さいながらも俺の手をしっかりと包み込む、暖かいはるかの手の温もり。
「ゆぅくぅん・・・」
 絞り出すような、そんなか細いはるかの声を聞いた俺は、安心してまたゆっくりと眠りの中に落ちていった。
 
 後で聞いた話によると、結局俺たちはずっと下流まで流されて、用水の溜め池に出たところで偶然通りがかった農家の人に助けられたらしい。
 二人とも水を少し飲んだものの命に別状はなく、あれだけの濁流に流されながら軽傷で済んだのは本当に幸運としか言いようがなかった。
 母親にも、先生にも、凄く怒られた。
 今思えば自分の説教嫌いはこのときのが原因だろう。
 ――それでも。
 俺は少しだけ誇らしかった。
 あの真っ暗に荒れ狂う流れの中、もう一度この手を、この温かさを取り戻すことが出来たのだから。


「ゆーくん、着いたみたいだよ」 
 ぼんやりとはるかの顔が写る。
 はっとして辺りを見回すと、車窓の外は家の近くのバス停で、運転手が次の行き先を告げている。
 う、どうやら寝てしまったらしい。

 あの日以来、はるかは水を怖がって泳ぐことが出来なくなった。
 きっと、あのときの記憶がまだ克服できていないのだろう。
 あの真っ黒な濁流。
 すべてを飲み込む、冷たく激しい恐怖。
 あのとき体に刻み込まれた感覚が、何年も経った今も未だに水を危険な物として認識しているのだろう。
 思い返せば、はるかはプールに入ると震えていた。
 気にしなければ気づかないほどに小さくだが、確かに震えていた。
 それでも、はるかは笑っていた。
 見ているこちらが痛々しくなるほどに、か細い笑顔だった。
 俺にそんな素振りを見せまいと必死に笑っていたんだと思う。
 そして、ついには水に顔をつけることが出来るようになったのだ。
 今日、俺がこうやってはるかを練習に誘ったのは、トレミーに勝つためだけではなかったのかもしれない。心の奥底では、はるかに水に対する恐怖を克服して欲しかったんだと思う。

「ゆーくんってば!」
 その声に我に返ると、はるかが少しむっとしてこちらを見ていた。
 バス停から家へと帰る細い小道。脇の小さな水田には稲が青々とした葉を茂らせている。
「・・・悪い、ちょっと考え事してた」
「もう、しっかりしてよね。さっきだっていつの間にか寝てるんだから」
 隣を歩くはるかは呆れた、というふうにこちらを見る。
「おまえも寝てたじゃないか」
「私はゆーくんより先に起きたよ?」
 俺はかろうじて反論するが、全然意に介していない様子。はるか的にはとりあえず先に起きていればOKらしい。
 もうずいぶんと日は傾いて、山の稜線に近いところまで来ていた。
 残りわずかな日の光を存分に浴びようと木々は葉を広げ、やがて来る夜に備えているようだった。
「明日、勝てるといいな」
 ふと、そんな言葉が俺の口から漏れる。
 現状で勝ち目はない。分かっていてもそう言わずにはいられなかった。
「ん~、もう負けてもいいかも」
 なぜかちょっと考える仕草をして、はるかは無邪気にそういった。
「何言ってるんだ?」
 あまりの発言に俺は慌てて聞き返す。
「ん~ん、ウソ、ウソ。何でもないの。うふふ」
 慌てる俺を尻目にはるかはそう微笑混じりに答える。
 なんだか知らないが、はるかのヤツやたら機嫌がいい。
「何だよ、気持ち悪いな」
 少し訝しく思いながらも、それを聞き正すより先にもう家の前に着いてしまった。
「とにかく、明日。私、がんばるから!」
「おう」
 まだちょっと涼しさが残る初夏の夕暮れ。
 カナカナとひぐらしはもう鳴き始めていた。
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No title

今回はさりげなくプールでデート回ですね(ぉ)
はるかちゃんとゆーくんの過去にこんなことがあったとは。
そういえば私も小学生の時に学校の側溝に迷い込んでいたオオサンショウウオを見たことがあります(笑)
このままでははるかちゃんがトレミーに勝つのは難しそうです。
いよいよラプラスの書が真価を発揮するのでしょうか。

Re: No title

コメントありがとうございます!
オオサンショウウオを見たことがあるとは、なかなかレアな体験されてますね~
書いておきながら自分は実際には見たこと無いのです(汗
さぁ、§2はこれからクライマックスです。TSもあるよ!
早く書かないと・・・
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まあ、適当に。

当ブログはTS(性転換)及び性的描写を取り扱います。
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